化学安全における経営層の役割【産業保安インサイド 第4回】by 若倉正英

さんぽコラム 産業保安インサイド 第4回/全15回
化学安全における経営層の役割
若倉正英

投稿日:2010年03月26日|更新日:2017年06月15日 10時00分

 米国やヨーロッパでは21世紀以降も大規模な化学物質の火災や爆発,事故的な漏洩による環境や市民への被害が発生している。

 OECD(Organization for Economic Co-operation and Development,経済協力開発機構)では化学物質による事故や環境汚染の低減に向けてさまざまな取り組みを行っており,2009年に環境安全部門が安全への経営層の役割について提案した。それをうけてOECD化学事故ワーキンググループ(WGCA;加盟国の産業保安関連の行政官による国際会議)が策定した2009 – 2012の検討プログラムに,化学事故防止に対する企業経営層の役割についての検討作業部会が立ち上げられることになった。

 安全に対して経営層が果たすべき役割が重視されることには以下のような背景がある。

(1) 2005年に発生した英国石油の米国テキサス製油所(以下 テキサス事故;RISCAD ID=6509), 英国のバンスフィールドの油槽所での事故(以下 バンスフィールド事故;RISCAD ID=6685)では経営者の責任が問われることになったが,これらの事故は経営サイドの責任を問われた最初の例ではない。反応暴走によって多量のダイオキシンが発生放散されたセベソ事故(1976;RISCAD ID=71)では製造依託元であるロッシュ社の,また化学会社の貯蔵タンクから猛毒物質が漏洩して,数万人が死亡したボパール事故(1984;RISCAD ID=73)では親会社であるユニオンカーバイド社幹部の責任についてメディアで取り上げられていた。

(2)ボパールやセベソ事故に関しては安全管理に対する意識や技術的な力量が不足した子会社への,親会社の責任に関する様々な議論があった。これらの経験を経てカナダ化学工学協会がレスポンシブルケア活動を提起し,国際的な活動へと発展した.

(3)テキサス事故とバンスフィールド事故は,ボパールの事故とは異なる側面がある。前者は大企業が直接経営するプラントの,かつ先進国での事故である。テキサス事故に関する“Baker Panel Report”には以下のようなコメントがある。「BPテキサス製油所では経営トップの安全への意欲不足により,安全に対する熱意や能力等の足りない現場管理職による設備運営がなされることになった。英国石油は全社的にコスト削減の状況にあった。現場では脆弱で不十分な保守管理や,モチベーションの低下したスタッフによる運転が行われ,これによって安全管理への意識が低下していた。」

(4)バンスフィールド事故における刑事訴追は現在も継続している。訴追内容によれば,設備は過酷なプロセス条件で,しかも低い技能レベルの運転員によって運転されてきたことが明らかになっている。これらの要因から,貯槽への充填などの作業が適切に行われなかったことも少なくなかったと推定されている。

(5)1990年以降,金融による企業買収や企業統合が大きな問題となっている。石油や石油化学でも多くの企業で統合や再編が進んでいる。また,ICI,Hoechst等よく知られた企業名が消失し,新たな企業名が出現している。ベンチャーキャピタルや未公開株式など新しい金融システムは,現場の安全において新たな問題を出現させている。これらの金融システムの変化によって安全が企業の方針にどのように位置づけられるかが明確になっていない。伝統のある製造業では保守管理や教育の重要性は認識されている。しかし新たな金融システムでこれらの企業を入手した経営者が,安全担保のための必要要件の重要性をどれほど認識するか疑問である。

(6)OECD/WGCAで作成された”Guiding Principles for Chemical Accident Prevention, Preparedness and Response(2003)”では企業の安全文化を以下のように規定している。

「安全文化は安全に関して経営層が価値を認め,それを態度,方針示し,徹底した意思疎通によって安全を社内全員の意志とすることである。安全文化の醸成のためにはまず取締役会など経営層が方針を打ち出すことから始められる。その方針は理解が容易であり,また実効性のあることが必須である」

なお,我が国でも安全工学会がプロセス産業の保安における経営者の役割について検討を行い,経営者が主体的に取り組むべき項目についてまとめている。

※このコラムは2009-2013年にリレーショナル化学災害データベース(RISCAD)サイトにて掲載されたコラムを再掲したものです(コラム内の情報は掲載当時のものです)。

さんぽコラム 産業保安インサイド 全15回

第1回 「化学安全と難波先生」
第2回 「産業における安全文化」
第3回 「災害報道と原因の探求」
▶第4回 「化学安全における経営層の役割」
第5回 「えっ!しらないの?」
第6回 「事故事例は役に立つのか?」
第7回 「改善は安全に」
第8回 「未曾有の大災害 マスコミ報道と自分たちの役割を考える」
第9回 「震災で考えたこと:事故からは成功体験も学びたい」
第10回 「モラルはなぜ生まれたのか」
第11回 「埋もれてしまった報道情報を知りたい」
第12回 「災害の記憶をどう語り継げばよいのだろう」
第13回 「ほめるか しかるか」
第14回 「社長と安全」
第15回 「炭鉱事故と救護隊」

若倉 正英 / Masahide WAKAKURA

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 安全科学研究部門 客員研究員
安全工学会保安力向上センター・センター長

産総研での事故分析や保安力の評価などに従事。モットーは、”遊びと仕事の両立”。