災害の記憶をどう語り継げばよいのだろう【産業保安インサイド 第12回】by 若倉正英
さんぽコラム 産業保安インサイド 第12回/全15回
災害の記憶をどう語り継げばよいのだろう
若倉正英
投稿日:2012年03月30日|更新日:2017年06月15日 10時00分
両国駅から国技館の横を通り5分ほど歩くと,独特の三重塔が屋根から伸びている堂々たる建物が見えてくる。築地本願寺などで知られ,建築家として初の文化勲章を受章した伊東忠太が設計した東京都慰霊堂である。ここには陸軍被服廠の跡地で,1923年9月1日には,大規模な運動公園をつくるため空き地だったという。同日の11時58分32秒に発生した関東大震災を逃れて,この空き地に避難した人々を猛火が襲い4万4000人以上がそこで亡くなったという。それらの人たちの霊を祭るため1930年に「震災記念堂」として建設されたが,1944年,1945年の東京大空襲の身元不明者を隣接する納骨堂に整葬し,1951年に「東京都慰霊堂」と改称された。震災と空襲の被害の様子を示す膨大な写真が展示されているが,訪れる人の姿はほとんどなく,時間の流れに埋まってしまっているようだ。ここは祈りの場である。悲惨な写真に囲まれながら,震災を語り継いで,震災から学ぶことのむつかしさを感じたのである。
震災の記録を残すために多様な取り組みが始まっている。消防庁は自治体消防と連携して,産業施設の地震と津波の被害を細かく調査し,講演会やホームページでの公開を続けている。NPO安全工学会は,3月11日の大震災に続いて4月11日,12日にいわき市周辺をおそった,激しい直下型地震による化学プラントの被災状況を詳しく分析し,化学プラントの緊急時対応,復旧,復興のための教訓や良好事例を整理した。また,大震災の記録を様々な情報媒体を利用して収集し,インターネット上で公開する「デジタルアーカイブ」の取り組みが本格化している。GoogleやYahooなどのインターネットサイトが画像や情報を一括管理したり,研究機関や大学による大震災関連の膨大な情報の分析作業などが始まっている。事故事例は集めることが目的ではなく,安全を確保するための出発点に過ぎない。特に周期の予測できない自然災害では,情報の防災対策への反映以上に,個人に対する息の長い記憶の伝達が求められる。
東日本大震災では,「津波てんでんこ」に代表されるように過去の悲劇が教訓として語り継がれ,多くの人に本能的な避難行動をとらせて,津波から逃げることができた例も少なくない。しかし,年齢の逆ピラミット化の進む日本では,逃げられるものがまず逃げる,ではすまない。災害弱者とともに皆が無事に逃げるための,丁寧な仕組みが求められる。その仕組みがないために,老人や幼児を助けに戻って津波に巻き込まれてしまった例が各地で報告されている。
遠い未来への記憶の伝承はシンプルであることが望ましいが,社会システムが高度化して人間関係がさらに希薄になるであろう将来に向けて,どうすればいいのだろうか。
※このコラムは2009-2013年にリレーショナル化学災害データベース(RISCAD)サイトにて掲載されたコラムを再掲したものです(コラム内の情報は掲載当時のものです)。
さんぽコラム 産業保安インサイド 全15回
第1回 「化学安全と難波先生」
第2回 「産業における安全文化」
第3回 「災害報道と原因の探求」
第4回 「化学安全における経営層の役割」
第5回 「えっ!しらないの?」
第6回 「事故事例は役に立つのか?」
第7回 「改善は安全に」
第8回 「未曾有の大災害 マスコミ報道と自分たちの役割を考える」
第9回 「震災で考えたこと:事故からは成功体験も学びたい」
第10回 「モラルはなぜ生まれたのか」
第11回 「埋もれてしまった報道情報を知りたい」
▶第12回 「災害の記憶をどう語り継げばよいのだろう」
第13回 「ほめるか しかるか」
第14回 「社長と安全」
第15回 「炭鉱事故と救護隊」
国立研究開発法人 産業技術総合研究所 安全科学研究部門 客員研究員
安全工学会保安力向上センター・センター長
産総研での事故分析や保安力の評価などに従事。モットーは、”遊びと仕事の両立”。