炭鉱事故と救護隊【産業保安インサイド 第15回】by 若倉正英

さんぽコラム 産業保安インサイド 最終回/全15回
炭鉱事故と救護隊
若倉正英

投稿日:2013年02月18日|更新日:2017年06月15日 10時00分

 2012年末に九州産業保安監督部を訪問する機会があった。産業保安監督部は経済産業省の地方組織で,九州産業保安監督部は九州各県の産業安全に関わる業務を行っている。かつて同産業保安監督部の仕事の中心は,なんといっても炭鉱の安全であったという。ベテランの幹部職員によると,炭鉱事故では,直後に炭鉱でもっとも信頼された鉱夫達で組織された救護隊員が,危険きわまりない坑内に向かう姿が心に残っているそうだ。救護隊は昭和24年(1949年)に施行された鉱山保安法で設置を義務づけられた,いわゆるレスキュー隊であるが,炭鉱の救援活動では粉じん爆発や一酸化炭素中毒など二次災害の危険性が極めて高かったとされる。三菱美唄記念館を取材した,美唄の炭鉱マチ出身の新聞記者はそのブログで”救護隊は選りすぐったベテランの坑内員で編成しました。時には,隣町の鉱山に出動を要請して特別編成した「救護隊」,つまり,決死隊が燃えさかる坑内に向かったのです。マネキンに残された救護隊の姿は炭鉱のマチが抱え込んだ困難と悲しみを思い起こさせます。”と語っている。炭鉱では戦場と同じような死生観すらあったのではないかと思われる。

 安全に関する法規や行政指導が進みつつあった第二次世界大戦後の炭鉱事故でも,他の産業との死者数の相違は桁違いである。被害拡大の最大の要因は経営層による安全や人命の軽視であり,現場で命を張った救護隊の思いと当時の炭鉱経営者のモラルの乖離には唖然とするばかりである。

1958年 福岡県大昇炭鉱,死者14人
1960年 福岡県豊州炭鉱,死者・行方不明67人
1960年 北炭夕張炭鉱 死者42人
1961年 福岡県上清炭鉱 死者71人
    福岡県大辻炭鉱 死者26人
1963年 福岡県三井三池炭鉱 死者・行方不明458人だけでなく,839人もが一酸化炭素中毒となった
1965年 北炭夕張鉱業所 死者・行方不明61人
1965年 福岡県三井山野炭鉱 坑内にいた552人中,279人が死亡
1972年 石狩炭鉱石狩鉱業所 死者31人
1981年 北炭夕張新炭鉱 死者93人
1984年 福岡県三井三池炭鉱 死者83人
1985年 三菱南大夕張炭鉱 死者62人

 悲惨だった炭鉱の状況を語り継ぐブログも少なくない。安全に関わる人達には是非訪れていただき,産業安全について考えていただきたいと思う。

・「空色コールマイン」
・「異風者からの通信」
・「そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター」

※このコラムは2009-2013年にリレーショナル化学災害データベース(RISCAD)サイトにて掲載されたコラムを再掲したものです(コラム内の情報は掲載当時のものです)。

さんぽコラム 産業保安インサイド 全15回

第1回 「化学安全と難波先生」
第2回 「産業における安全文化」
第3回 「災害報道と原因の探求」
第4回 「化学安全における経営層の役割」
第5回 「えっ!しらないの?」
第6回 「事故事例は役に立つのか?」
第7回 「改善は安全に」
第8回 「未曾有の大災害 マスコミ報道と自分たちの役割を考える」
第9回 「震災で考えたこと:事故からは成功体験も学びたい」
第10回 「モラルはなぜ生まれたのか」
第11回 「埋もれてしまった報道情報を知りたい」
第12回 「災害の記憶をどう語り継げばよいのだろう」
第13回 「ほめるか しかるか」
第14回 「社長と安全」
▶第15回 「炭鉱事故と救護隊」

若倉 正英 / Masahide WAKAKURA

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 安全科学研究部門 客員研究員
安全工学会保安力向上センター・センター長

産総研での事故分析や保安力の評価などに従事。モットーは、”遊びと仕事の両立”。